1960年代に存在した情報サービス会社のうち、パンチ部門ないしパンチャーを抱えていなかったのはソフトウェア・リサーチ・アソシエイツ(のち「SRA」)ぐらいのものであって、ほとんどは多かれ少なかれパンチ業務をやっていた。なぜなら電子計算機にかかるプログラム、データはすべてパンチカードによって生成されていたからである。
プログラムのみを作るというのは、つまるところ机と紙と鉛筆があればいい「お手軽」な――実際は技術とノウハウが必要だったのだが――仕事だと、業界の中の人々でさえ考えていた。たしかに初期投資という意味で、純粋なソフト会社というのは「お手軽」だったかもしれない。
だが、もっと「お手軽」だったのは要員の派遣である。極端にいうと、街中から職にあぶれている就労適年齢の人を集めてきて現場に送り込めばよく、事実、金融機関の第3次オンライン開発が最盛期だった1980年代末には、ソフト業界でそういうこともあった。
その要員を受け入れるほうも勝手を知っていて、給与と税金を支払ってカツカツというような人/月単価しか出さなかった。ただしそれはバブル期が生み出した異常な風景であって、広く一般的に、かつ恒常的にそれが行われていたということではない。
もう一つ「お手軽」だったのはパンチ業である。
要員派遣型であればパンチマシンは派遣先のユーザーが購入して用意した。だから、設備投資はほとんど不要だった。ましてプログラム作成のように特殊な知識も必要なかった。キーボードが打てさえすればよかった。誤解のないように強調しておきたいのは、そういう状況に甘んじたパンチ業者は、結果として淘汰され、消え去るほかなかったということである。
「個人事業者だから、メーカーはパンチマシンをレンタルしてくれない。これには参った」
と東京データーセンター(のち「TDC」、現「TDCソフト」)の野﨑克己が語っているのは、パンチ業務を受託――自己の責任のもとで仕上げて納品する――ことを目指したからにほかならず、あるいは
「立ち上げの苦しいとき、目先の売上げを求めてパンチャーを雇い、パンチマシンを置いて仕事を取ってきたこともあった」
と日本コンピュータ・ダイナミクス(NCD)の下條武男がいうのは、自分たちが作ったプログラムをパンチカードに打ち込む必要があったためでもあった。
ここで取り上げるのは、受託型のパンチ業を〔業〕として確立していったプロセスである。受託計算サービスやプログラム開発の附帯業務としてパンチ業を行った事業者ではなく、すなわち「パンチセンター」の成立を眺めておきたい。
『日本IT書紀』巻之廿一「草莽」から抜粋