JDEA Forum

「データ」についてのあれこれをレポートしつつ、ワイガヤ(ハイブリッド・ミーティング)や勉強会/セミナーなどを通じて日本データ・エンジニアリング協会(JDEA https://www.jdea.gr.jp/)を側面支援していきます。

「データ」についてのあれこれをレポートしつつ、ワイガヤ(ハイブリッド・ミーティング)や勉強会/セミナーなどを通じて日本データ・エンジニアリング協会(JDEA)を側面支援していきます

パンチセンター奮闘記(2)

 パンチ業の起業者については、『ソフトウェアに賭ける人たち』(前掲書)が奥田耕己(丸栄計算センター、のち「トランス・コスモス」)と小宮善継(カテナ・ビジネスサービス、のち「カテナ」、現「システナ」)を取り上げているので、本書では深追いしない。個々の企業が規模を拡大したのはITサービスの需要が急速に増大したからにほかならず、またITサービス産業の規模が拡大していくのに伴って、多くのパンチセンターはパンチ業務をおざなりにした。

 話の都合上、先回りするが、1970年(昭和45)6月29日に発足した社団法人日本情報センター協会で、その初期に最も関心が高かったのはパンチ業務にかかわる委員会である。

 『日本情報センター協会10年史』は次のように記す(年次は「昭和」、数字は原文ママ)。

 四五年十一月に開かれた教育広報委員会で、パンチ部門を有する企業の懇談会を催すことが提案され、実現をみたが、これが会場に入り切れない盛況であったことから、常設的にパンチ部門懇談会を持つことが決定された。

 しかし、正式に設置されたのは四六年度(座長・奥澤栄一中央計算センター社長)からで、健康管理、勤務体制、定着対策、新人養成などについて意見の交換を行った。 当時は、パンチ料金は2~3年ごとに大きく変動していたが、四七年度でも前半と後半とでは大きな価格差のあった年であり、料金適正化のための料金算出基準の確立が議論になってくると同時に、価格に関する実態調査の実施が始まる。

 パンチ業務に従事するのは女性が多かった。加えてIBMやUNIVACのパンチマシンはアメリカ人向けに作られていたために、キーが大きく、キー・インごとに強い力をかけなければならなかった。母性保護の問題だけでなく、腕の腱鞘炎という労働災害が指摘されつつあった。

 さらにパンチ業務の従事者は高卒女子が多く採用され、彼女たちは勤続5年内外で結婚退社するのが一般的だった。事業者はそれを前提に人事サイクルを計画し、給与体系を作っていた。

 もっと端的にいえば、生理休暇は与えなければならないが、多少の無理をして夜間の残業もやってもらいたい。定着してほしいが、25歳を超えても勤続されたのでは会社の利益が圧迫される。

 そういう意味で、①健康管理、②勤務体制、③定着対策、④新人養成——の4項目は相互に関連し合う問題だった。

 どうせどこかで書くことになるのだから、ここであらかじめ書いておくと、つまりこれがセンター協の限界でもあった。パンチ技術の高度化というテーマは、遂にセンター協では取りあげられることがなかった。パンチ業務に従事する社員のモラルを高め、技術力を上げることなしに、入力単価の問題に目を奪われた。

 「現実に、採用した女子社員は25歳までに大半が退職していった」

 という反論があるのは十分に承知している。だが、教育の問題がおざなりにされていたことは否定できまい。入社してしばらくの間にキーボードを打てるまで教育すれば、あとは現場の実践で補うという体制が一般的だったのは、パンチ業務を受託計算サービスやプログラム作成の附帯業務として見ていた証拠なのである。

 ――だが、それでは済まない。

 ということに気がついていた人がいた。

 川口重信と坂本政恵である。

 

            『日本IT書紀』巻之廿一「草莽」から抜粋